2019年にNHKの大河ドラマで、日本初の五輪選手、日本マラソンの父とも言われる郷土の偉人、金栗四三翁を主人公にした大河ドラマ「いだてん」が放映され、熊本は大賑わいでした。残念ながら、ドラマは昭和13年第12回オリンピック東京大会が返上されたあたりで終わりましたが、金栗四三翁はその後中央での活動から一旦身を引かれ、昭和20年故郷の玉名市小田へ帰ってこられます。金栗翁53歳でした。
さらに、熊本県体育協会初代会長や熊本県初代教育長などを歴任され、第1回県民体育祭の開催や九州一周駅伝の企画など、九州のスポーツ振興に尽力をされました。一方では日本マラソン連盟会長として戦後低迷するオリンピックや国際マラソンでの日本選手の復活に力を注がれ、昭和28年にはボストンマラソン日本監督として現地に臨み、山田敬蔵の世界記録での優勝に貢献されるなど、日本マラソンの父と呼ばれる所以の大活躍をされました。
<金栗四三翁と健康マラソン>
昭和47年、金栗翁81歳、そんな偉い人とは知らずに金栗四三宅を訪ねた熊本走ろう会の3人に「これまでは第1線の選手を育てるのが自分の任務であったが、引退後やるべきは国民皆走だと思っていた、引き受けましょう。」と初代名誉会長就任を快く承諾されたという。速さを競わず、優劣を争わず、健康をゴールとして走る。熊本走ろう会が提唱した健康マラソンは、走る人の共感、市民の理解を得てまたたく間に全国に広まり、中高年のマラソン同好会がいくつも誕生して、今日のマラソンブームを生むきっかけとなった。昭和48年日本で初めての中高年の健康マラソンとして開催した天草パールラインマラソン大会は、金栗翁なしでは成功しなかったと言われています。翁は大会運営の相談に与ったほか、大会前に参加者が少ないことを心配されて、山田敬蔵氏や貞永信義氏などに直接参加を要請されて、豪華な大会ゲストが実現したそうです。
(熊本走ろう会のユニフォーム姿の金栗翁)
金栗翁はこの大会が大変お気に入りで、亡くなられる前年まで毎年欠かさず参加され、スターターを務められました。
<金栗四三翁と熊本走ろう会>
熊本走ろう会は、発足の翌年から金栗翁の自宅訪問マラソンを始めました。(約25キロ) 昭和58年に金栗翁が亡くなられてからは墓参マラソンとして今日まで続けています。令和元年5月には、『いだてん』大河ドラマ放映の記念行事として、「金栗翁ゆかりの地を巡るラン」を行いました。金栗少年が走って通ったという南関第3小学校(当時玉名高等小学校)をスタートして、当時金栗少年が走ったと思われる山道を辿り(6キロ)和水町の生家を訪ねた後、さらに玉名高校時代に走って帰省したと言われる菊池川に沿って金栗翁終焉の地である玉名市小田まで走り、墓地にお参りをするというコースで沿道のあちらこちらで地元のみなさんの応援を戴きました。
令和4年の墓参マラソンは、これまで長年続けきたコースで予定通り5月に実施しました。
白川公園を7時15分に出発、途中山室で6名合流
計20名で植木、田原坂公園を経由し金栗翁墓地へ
墓参後、今は資料館になっている住居を見学
復路「玉東ふれあいの里交流センター」にて温泉入浴・食事後、JR木の葉駅から帰途につきました。
(約32キロ走行 参加者20人)
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